【共通の課題にしよう】子どもに本を読ませたいのはおしつけ?親がどう関わるかが重要です
【大絶賛!!】イチローの自己肯定感の話しが面白い!!【自己肯定感と自己受容】
自己肯定感を高めようと努力することが、かえって苦しさを生んでいないでしょうか。アドラー心理学で重要視される「自己受容」の考え方や、子どもへの不適切な関わり方について、具体的な事例を交えて解説します。
1. 自己肯定感に対する違和感
みかん先生、おすすめの動画があるって聞いたんですけど。
そうなんですよ。イチロー選手が対談をしている動画なんですけど、そこで自己肯定感について話していたんです。その動画がすごい面白くて、私にはすごく共感しました。
自己肯定感って何ですか?というところから始まって、イチロー選手がね、自己肯定感って聞いたところによると、日本特有に使われているもので、海外ではあまり使われていないから、イチロー選手はあまり知らなかったと。
そして『自己肯定って気持ち悪くないすか?それ自己肯定してる人ってどうなんすかね?それって人間的に厚み出ますか?』という、割と辛辣なことをコメントしていらっしゃって、「そう、私もそう思ってた」とすごく思った動画でした。
なんかすごく今、「自己肯定感を高めるために」とか、「日本人は自己肯定感がこんなに低いから問題だ」とか、「もっと自己肯定感を子どもにあげたいんだけど」とか、「もっと自分が自己肯定感を高めるためにはどうしたらいいですか」とか、めちゃくちゃ質問されるし、とにかく自己肯定感という言葉が溢れているなと思っています。
2. 自己肯定感と自己受容の違い
で、私はやっぱりアドラーをちょっと学んでいるし、実践しているというところで、アドラーで出てくるのは自己肯定ではなく自己受容なんですよ。
幸せの三原則として、アドラーを実践されている野田俊作先生という方が言ったのは、幸せと人が感じるために必要な3つの条件があって、それが自己受容することと、他者を信頼すること、他者信頼と貢献感を持って生きていくこと、みたいな風に自己受容という言葉を置いています。対して、日本でたくさん使われているのが自己肯定感というものです。
自己受容って分かりやすい言葉で言うと、自分を受け入れることです。ありのままの、そのままの自分をそのまま受け入れることを自己受容と言っていますね。
で、対して自己肯定って何なんだろうって言って調べて出てくるのは、「そのありのままの自分を肯定すること」「肯定する感覚」とか、「好意的に受け止めることができる感覚」って書いてあるから、意味としてそんなに違いはないのかもしれない。
ないのかもしれないんですけど、私はなんかイチロー選手と同じような気持ち悪さみたいなものを、その「肯定」という言葉に感じる感じがして。自己肯定感を上げよう、上げようとしたら苦しくならないのかな、みたいなところがすごくあるなと感じましたね。
3. サッカー少年と「下手くそ」の告白
以前その質問を受けたことがあるんですけど、『うちの子、すごくサッカー頑張っていて、レギュラーにも4年生なのに選ばれるくらいに活躍してるんですよ。小学生の中での4年生だから結構すごいですよね。5年生、6年生がいる中でレギュラーに選ばれるくらいに活躍しているのに、本人、自分はサッカーが下手くそだって言い続ける。もっと自信持って欲しいのに、どうやったら息子の自己肯定感って上がりますか?』という質問を受けて。
「なぜ下手くそだと、何を見てお子さんが思ったのか?」っていうのを聞いたら、『それ聞いたことがないです』って返ってきたんですけど。
大事なのはそこで、なんで本人は自分はサッカーが下手くそだと思ったのか。例えばそれがプロのサッカー選手の試合を見てとか、あとはね、他の学校と対戦した時にもっともっとうまい人がいたから、「あ、自分ってまだまだ下手くそなんだ」と思ったとすると、めちゃくちゃかっこいい話じゃないですか。
で、それに対して自己肯定感を上げようとするのって、『いや、あなたはうまいと。下手くそなんていうもんじゃない。それじゃあすごい自己否定につながってしまうから、あなたはうまいうまいんだ。お母さん見てて思うよ。あなたはレギュラーだ。4年生で5、6年生を差し置いてレギュラーなわけなんだから、うまいのよ。自信持っていってらっしゃい』っていう関わりに聞こえるんですよ。『こんなに伝えてるのにまだ下手くそとか言うんです』みたいな。
じゃあ、自分がその男の子だったらと仮定してちょっと想像してみた時に、「あ、もっとうまい選手見て、ああ自分はまだまだ下手くそなんだ」と思った。「はあ、まだまだだな。自分サッカー下手くそだなって」言ったら、お母さんに『いいえ、あなたはうまいです。下手くそなんていうもんじゃない。4年生でレギュラーなんだからね』って言われたとしたら、「はい、上手です」とはならないと思うんですよ。
それ、ならないですね。
ならない。その無理やりのその肯定って何っていう。
4. 自己受容が導く成長意欲
で、対して、私が実践している方の自己受容っていうのは、そのまま受け入れ。だから『下手と思っていいよ。なんで思ったの?そうか、もっとうまい選手がいて、だから下手くそって思ったんだね。そういう自分がいていいね』って受け入れる。だってそう思うもんね。
その上でどうしたいと思う?今、下手くそだって思って、「下手くそだ、下手くそだ、下手くそだ」って言っても、まあしょうがないわけで。その上でどうなりたい?どうなったらいい?そのために何ができる?『そっか、下手くそって思う自分がいるからこっちに進めるんだね。素敵だね』みたいなのが自己受容。
受け入れたら良くない?良くない?下手くそって思っても。みたいなところが自己受容だと思っていて、そっちの方が私はなんか気持ちがいいというか、関わりやすいというか、その子の行きたい未来に進んでいく方なんじゃないかなって思う感じがしますね。
聞いてて、なんか成長意欲っていう言葉の方がすごく当てはまるのかなっていう風には思いましたね。
そうなんですよ。これアドラーの言葉で言うと「劣等感」。劣等性と劣等感という言葉があって、劣等性っていうのは、誰が見てもどう見てもこの人は、例えば肢体不自由とか、足が1本ないとか、目が見えないとか、鉛筆がうまく握れないとか、背がとても低いとか、色々あるわけじゃないですか。これが劣等性というもの。
人と比較して、まあ誰が見ても「そうね、これは比較したらこの人の方がすごいね」とか「この人の方が苦手だね」っていうのをみんな持っている。みんな持っている劣等性というものがあって、劣等感っていうのは、自分でここが足りないと思うことなんですよ。
「自分は文章が下手くそだ」とか、「自分は三日坊主だ」とか、何でもいいんですけど、人と比べてここが劣っているという風に自分が思うのは劣等感で、アドラーは『劣等感は人間なら誰しも持っているもので、とても素晴らしいものだ』って言っている。劣等感というものを持たない人は成長しないから、だから成長意欲なわけですよ。
もっとこうなりたい未来があるから、それに対して劣っていると自分で感じることが劣等感。
劣等感持ってていいし、劣等感をどう生かしていくかがすごい大事。『ダメだと思っていいんだよ』って自己受容だし、ダメでそんな自分がいて、だからこそどうなったらいいの?そのために何をするの?
一歩でも、今の自分と過去の自分を比べた時に一歩でも進んでいたら、「よしよし」と。こんなダメだって思う自分がいるから、こうして進んでいるねって進んでいくのが、この自己受容との付き合い方だし、劣等感、成長意欲との付き合い方。
5. 劣等感をコンプレックスにしないために
これが劣等感コンプレックスとかってなった時に、そうすると「悪だ」って言うんです。だから、劣等感を理由にできない言い訳を始めたら、それは使い方が楽しくないよ、という風に言う。だから『自分はサッカーが下手くそだからもう練習しないし行きたくないよ』ってなったとしたら、それ劣等感コンプレックスって言って、自己肯定感を上げようって言うか、「どうした、どうした」っていう話なわけですよ。何かが損なわれちゃってる、元気が。
『そっか、下手くそっていつ思ったの?』って。それで『ああ、だから行きたくないって思うんだね』っていうところのまず受容が必要だし、『行きたくないって思うんだね』と。そこをしっかり誰かに共感してもらって、「人と関わるっていいな」とか、『そっか、行きたくないとか思っちゃっていいんだな』っていうところが認められた上で、自分を受け入れられた上で、明日、明後日、1年後、10年後、どうなってたらいいの?そのために今、行きたくないと思ってる自分、それでいいんだよ。その上で今できることは?っていう風に進んでいくのが、やっぱり自己受容だと思うので。
コンプレックスとして使い始めちゃったら、多分、勇気くじきってなんかすごい元気ない状態にあるから、そこへの寄り添いとか関わりとか共感みたいなのが必要になるから。
『いや、肯定しろよ』って関わってくる人、すごいうざいと思うんですよね、私。自分としては「これはなかなか足りてないと思うんだ」っていうところに、『いいえ、足りてます。足りてる、足りてる』って言って、『そうすればね、やる気が湧いてくるよ』みたいなのは嘘だと思うもん。ちょっとうざいかな。
6. まずは「そうだよね」と受け入れる
なんかこう、自己肯定感を高めなければとか、自己肯定感が高まるための働きかけとかで、自分に暗示をかけるとかあるけれど、私はそれ一定の効果あると思ってバンバンやってたタイプですよ、ずっと。
でもそれって、その、なんだろうな、ポジティブな言葉にたくさん関わっていたら、自分の捉え方がちょっとポジティブになるみたいなことはもちろんあるから、いろんな工夫をしたらいいと思うけれど、まずは今の状態の自分に対して「そうだよね、そう思うよね」っていう受け入れっていうのが、まず根本にすごく大事なんじゃないかな。
だから『自己肯定感が低いな、うちの子は』って思ったり、『私自己肯定感低いんだな』って思ったら、『いいんだ』って。低くて。だってなんか、どうなりたいかっていう未来があるからそう思うんでしょ?それはとっても素敵なことだ。『いいね、いいね、そう思っちゃうよね』っていう、やっぱり自己受容のところがすごい今大事なんじゃないかなって思いますね。
日本人、真面目だし、成長意欲高いんだなって思いますよね、自己肯定感が低いっていう情報を見ると。
謙虚なんですよ。謙虚であることと、自己を否定することとか、自己卑下っていうものは、私は違うと思っているんですけど。だから自分をわざわざ否定する必要はないんだけど、でもわざわざ肯定する必要もないというか。
日本人のいいところ、謙虚なところっていうのはすごい強みだし、いいと思うんですよね。「まだまだなんすよ」ってやつ。いいと思うんだけど、わざわざ自分を否定しなくてもいいし、向こうが「いいね」って言っているものに対して『いや、違います、私はできないんです』っていう風に生きていく必要はないと思う。ないと思うけど、まずはでも「できないんです」って思う自分の受け入れをしていきたいなって思いますね。
7. 子どもへの「できたね」がうざい理由
とはいえ、やっぱり親御さんが子どもに関わる時に、『うちの子、自己肯定感低いな』と思って、何でも『いいね、いいね』とか『できたね、できたね』みたいな感じで関わっちゃうケースってすごい多いと思うんですけど。やっぱり子どもとしてはそういう関わりをされたら、やっぱりうざいって思うじゃないですか。そういう時に、本当はどういう風に関わった方がいいのかな。
なるほど。『いいね、いいね、できたね、できたね』ってとっても素敵な関わり方なんですよ。私もめっちゃする。で、その時に私の感覚ではですよ、小学校上がった子どもっていうのは、自分と同じことが基本はできる。経験が不足しているだけ。
例えば料理で真っすぐ切れないとかで言えば、料理をした回数の差であって、基本的に同じことはできる。同じ人間として関わるんですよ。生まれた0歳児からそれはできないけれど、小学校に上がるくらいになったら言葉を発せられるし、その経験の差でこそ差はあっても、同じと思って関わることにしているんです。大体そうだし、私よりすごいことする子どもいっぱいいるし、1年生とかでも。
それをすごく自分よりも力の劣った存在と見て『いいね、いいね、できたね、できたね』はむかつきますよ、正直。それは大人がそれを言われたらむかつくという感覚と一緒です。
だから、大人の皆さんが『わあ、上手にジュース買えたね。上手だね。ジュース1人で買えたのね。偉いね。できた、できた』って言われるのと一緒なんですよ。できるし、これの何でもかんでもだったり、それは普通にできるよねっていうことを、『はい、ちゃんと座れててね、できたね』『あ、ちゃんとスリッパも履けるね、できた、できた』っていうのは、うざいんですよね。子どもとしても『いや、わかってるって、できてるんだってば』みたいな風になるんですよ。
だから『できたね、できたね、いいね、いいね』を、例えばずっと頑張ってきた、なんかこう練習してきたドリブルができた時に、『わあ、できたんだね、いいね』って、これは嬉しい関わりで、全然やっていい。
だから、昨日のその人と比べて一歩でも前に進んでいるいいこととかに対して、一緒に『わあ、できたね』って共感することで全然いいんですけど、『どうせこいつこの程度なのが、これができたんだ』とか、なんかその意図的に『これをもっとやらせたいからここ褒めとこう』みたいな、やっぱり内面が出るから言葉って。みたいな関わり方の『できたね、できたね』は多分ムカつくし、『あ、この程度やってればいいんだ』と思って、じゃあ座ってりゃいいやとか、『え、あのジュース買えた?みたいな。何年生だよ、気持ち悪いな』みたいなのが生まれたりする。『くらい買えるだろうよ』みたいなものが生まれたりするのかなとは思うけど。
『できたね、できたね、いいね、いいね』は、本当にこう成長してるなみたいな時に人から言ってもらえるのってやっぱ嬉しいはずだから、本当、大人に対してそれ言ってむかつきませんかっていうところ、本当に良くよく気をつけないと。やっぱり子どもってほら、ちっちゃいし可愛い存在として目の前ちょろちょろしてるから、言っちゃいがちだなとは思いますね。
8. 横の関係で関わることの重要性
だから自己肯定感がわかんないけど、その人がその人らしくどんどん成長していくサポートをする立場としては、やっぱり同じことができる存在として見て。でもほら、昨日はジュースの買い方を知らなかったんだけれども、だから『どうやって買ったらいいの?』と聞いてきて、『あ、こうだよ、こうだよ』って説明して買ってきたら、『おお、買えたね、できた、できた』っていう関わり。別に馬鹿にはしてない。
さっきのサッカーの例で言うと、子どもが一生懸命練習してて「できない、できない」ってなって、ところが「できた」っていうタイミングで「いいね」って言うと、子どもとしては「でしょ?」ってなる、いう感じ。
あ、そうそうそうそう。そうで、そのそこに尊敬とか、自分がね、お母さんがすごいサッカーが得意とかじゃなければ、『すごいね』っていうのも別に横からなんですよ。
そういう、一緒に生きていく仲間として、気持ちいい言葉を掛け合っていこうねとか、お互いの頑張りをお互いにこう認めていこうねみたいな、すごいいい関わりだと私は気持ちがいいな、ぜひ私の周りにいる人言ってほしいなって思う関わりだと思うんだけど。
当たり前に自分がやっていることに対して「できたね」とか、どうやったってそれはやってもしょうがないよねみたいなことに対して「いいね、いいね」みたいな関わりって、本当にその人のこと思って、その人を横の関係っていうか、同じこう人生を一緒に学び合っていく存在として見て出たのかなみたいなのはあるから。どう捉えているかだし、一緒に見ているかとかなのかな。でもどう捉えてるかがすごく出るところだなって思いますね。
9. まとめ:自己受容から始まる成長
自己肯定感という言葉は、日本で一人歩きちょっとしちゃってるかなっていう感じはあります。あんまり「肯定感を高めよう、高めよう」って。多分ちょっと想像してみると気持ち悪いと思うんですよ。『あなたの自己肯定感を高めます』みたいな人が横にいたら、『結構です』って私思うんだけど。
なんか「高めよう、高めよう」とするというよりは、その子が今「これは自分はダメだ」とか、自分を認められない部分があるとしたら、それには理由があって、そこには成長意欲があるかもしれないし、何か傷ついた経験があるのかもしれない。
それを聞いた上で、『それはそう思うよね。そう思うあなたがとても素敵だ』っていう自己受容的関わりっていうのは、もっともっといろんな人ができるようになったら、自分に対してもできるようになったら、だいぶ生きやすいんじゃないかな。
その上でどうしたいと思うのかの一歩一歩を、『できた、できた、いいね、いいね』で一緒に進んでいくことっていうのが、子育てとか教育っていうところにすごく大事なんじゃないかなっていう風に思います。
ありがとうございます。
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